普段外を歩いている時に見かけたり、家族や友人との会話で話題に上がったりする、”なんだかよくわからない” 場所。そこには、よくわからないが故に私たちを惹きつける不思議な魅力があります。今回はそんな県内の「おもしろスポット」に編集部メンバーが突撃し、噂の真相を確かめてきました!
~ 目次 ~
・【淡路市】7000匹以上の猫に会える!?「淡路市立中浜稔猫美術館」
・【神戸市兵庫区】ふっくら美男子な大仏さん「兵庫大仏」
・【朝来市】推しは超スーパー地下アイドル「GINZAN BOYZ」
・【姫路市】ちょっとそこまで~世界旅行へ「太陽公園」
ふっくら美男子な大仏さん♡
神戸市兵庫区に鎮座する「兵庫大仏」
その名は“兵庫大仏”。1200年以上の歴史を誇る『能福寺』の境内に鎮座しており、台座を含めた高さは約18メートル!
西洋文化のイメージが強い神戸の街になぜ巨大大仏が存在するのか、実際にお寺を訪れ、誕生秘話を伺ってきました。
お寺の最寄り駅は阪急新開地駅もしくはJR兵庫駅。今回は新開地駅から向かうことに。
駅からお寺までは歩いて約15分ほど。周辺はいたって普通の住宅街なので、「本当にここに大仏が…?」と若干不安を覚えつつも先に進みます。すると…、
?! あの特徴的な「螺髪(らほつ)」は…!
ついに『能福寺』を発見。塀の上から大仏さまのお顔を確認することができます。これは、大きいぞ…!
境内に足を踏み入れ、大仏さまとご対面。
圧倒的な存在感に、思わず足を止めてしまう筆者。大仏さまと向かい合ったまま、しばしの時をすごします。あ、住職さんにご挨拶へ行かないと…!
挨拶を済ませ、能福寺の26世住職である雲井住職にお寺や兵庫大仏の歴史について話を伺いました。
能福寺は、日本に天台宗を広めた最澄(さいちょう)伝教大師が、唐(現在の中国)への留学の帰り道、瀬戸内海から兵庫・大輪田泊(現・兵庫港)に上陸された際に開いたとされるお寺です。
その後、平安時代末期に平清盛(たいらのきよもり)が福原に都を遷都すると、信仰心の篤かった平家は能福寺に帰依し、平家一門からの熱心な寄進を受けてお寺は大きく発展したそうです。
時は流れて時代は明治に。新政府の発足と文明開化を契機に、仏教と神道は明確に分けられ、国内に「廃仏毀釈」の波が訪れました。その流れの中で兵庫大仏は誕生します。
政府の要請とはいえ、仏さまをないがしろにしてきたことに不安を覚えた街の人々は「再び仏さまを拝もう!」と決意し、多くの民衆・宗派が一丸となって明治24(1891)年5月8日に初代・兵庫大仏を建立しました。
材料となる“銅”を捻出するために、街に住む多くの女性が家にある銅鏡を寄進したんだとか!
そんな、みんなの力を合わせて作り上げた初代・兵庫大仏ですが、日中戦争・太平洋戦争の激化に伴う「金属類回収令」によって、昭和19(1944)年に解体されることとなりました…。
当時の住職は、人々の心を安んずるために建てられた大仏が人を傷つけ、あやめる道具になることにひどく心を痛めたそうです。そして、次代の住職に「いつか必ず大仏さまを再建して欲しい」という思いを託されました。
やがて戦争が終結すると、偶然はたまた運命なのか、解体された大仏さまの残骸が発見されます。「壊されたことは残念ですが、兵器にされなかったのは不幸中の幸いでした」と語る雲井住職。
残骸はお寺で引き取られ、歴代住職によって大切に保管されてきました。そして、平成3(1991)年5月9日、ついに二代目・兵庫大仏が建立されました!
初代の残骸も溶かし込まれており、100年前の初代大仏さまに込められた想いは、しっかりと受け継がれています。
今回の取材を通して、兵庫大仏は多くの人々の想いが時を越えて受け継がれた存在であることを知りました。様々な困難を乗り越え、大仏さまは今日も街の人々を見守り続けています。
コロナ禍以来、大変なことが多い昨今、大仏さまのもとを訪れ、その圧倒的な包容力に包まれる、心安らぐひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。
場所 | 能福寺(神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39) |
拝観時間 | 9:00~17:00 |